城の用途
城の用途
押山城は、武節古城(新田氏(名倉 清水城主 足助鈴木氏の代官)から山田氏が譲
り請ける)から川手城(山田氏居城)への狼煙等による情報伝達の1つの拠点との考
えがある。
武節古城→九澤砦→峯山砦→押山城→やぐら平(又は秋葉砦)→川手城
上記経路のうち、峯山砦から、やぐら平や秋葉砦へは、見通しはよく距離も近いため、
狼煙による連絡は、押山城を経由せずに、峯山砦から直接に連絡が可能である。
このため、連絡経路の1拠点とは考えにくい。
川手城の詰めの城と考えるのが妥当かもしれない。
ただ、城の規模を考えると、疑問が残る。
1)川手城よりはるかに押山城が大きい。
(山田景隆は、三河方面の今川方諸士に対し、軍事指揮権を持っていたと推測
される程の武将。その地位の居城として、川手城の規模が妥当か疑問)
押山城は、回りに砦等の防御施設が配置されている(峯山砦、旧押山熊野神社、
なぞの平地、やぐら平)。対して川手城は郭が複数あるが、砦は秋葉砦のみ。
2)5000貫(1万石相当か)で武田信玄が調略している説を考えると、川手
城より攻略しづらく、見張り等が十分にできるため、戦略的な価値が高い。
3)川手城は純粋な山城ではなく、山の中腹の城。当時の城は、山の頂上を利用
して築かれたものが多く、居城としては疑問がある(川手城は居館に近い形状。
(津具 後藤氏の白鳥城と同じ形態か)
川手城が川手にあったのが前提であるので、詰めの城となるが、それも白紙とすると、
押山城が川手城であったとも考えられる。
(押山城を北と南からみて見ると、砦などを従えた、堂々とした堅固な城に見える)
☆ 峯山砦から秋葉社方面及び美濃(小田子砦、下村砦)方面を望む
押山城から外に向かった守り
東の山上(Mt.押山の山頂)に峯山砦
北西に下った所にやぐら平
南西に下った所に旧押山熊野神社
南と北は急峻な斜面
(南の急峻な斜面の下には1814㎡(登記上)の平地。他にも畑の耕作で山に入った
との言い伝えがあり、明らかになっていない平地が存在するか)
近隣の城や砦との連携(弘治3年(1557年)ごろ)
注)押山城や峯山砦等から武節城側に国境(美濃)の情報を送ったと説明する資
料が見受けられるが、川手城の城主が武節方面に属していた記録がない。
川手(押山を含む)は、戦乱の世で空白地であったかのように、戦いや進軍
の記録がない。(地形的にみても、加茂郡足助荘とされる根羽が信州に併合
されている(元亀2年(1571年?)のに、その西に位置する川手(押山)
は侵略等がない)
武田軍も、武節城や清水城、また、岩村城や小田子などを攻めているが、
川手(押山を含む)へ進軍していない。川手への記録は、唯一、武田信玄に
よる調略の記録(永禄3年(1560年))であるが、戦いではない。
川手城主が、名倉郷が斉藤系から武田系となった時(弘治2年)、東方面(根
羽方面=信州に近い)や南方面(武節方面や津具方面(津具金山))に脅威を
感じ、防衛体制の強化のため東方面や南方面の情報が必要ではなかったか。
武節古城 守将は押山宮内?(山田氏の配下?)
清水城(名倉)の新田氏の支城だったが、新田氏が、弘治2年、下条信氏に清水城、
武節城、白鳥城(後藤氏)を攻められた後、弘治2年~3年ごろに気賀へ移るにあた
り、山田景隆に譲ったか。
武節古城から、武田氏などの情報を収集し川手城に送ったと考える。
↓ (情報を発信)
九澤砦 守将等は不明
↓
峯山砦 守将は太田氏か(山田氏の配下。山田家(川手家)家老との言い伝えがある)
峯山地域の土豪と思われる太田氏に任せたか。
↓(同時に押山城へも情報伝達)
秋葉砦 又は やぐら平 守将等は不明
やぐら平は押山城の防衛施設と考えると、情報は、峯山砦から、直接、秋葉砦経
由との考え方もある。やぐら平は、木がなければ、川手城を見ることができたはず。
押山城(=川手城)の地図上での位置
東方向 根羽村の中心部まで地図上の直線で 約8キロメートル(緯度がほぼ同じ)
北西方向 恵那市明知町の中心部まで地図上の直線で約11キロメートル
南方向 作手地区まで地図上の直線で約25キロメートル
南南東方向 浜松市井伊谷まで地図上の直線で約50キロメートル
北方向 岩村城まで地図上の直線で約13キロメートル
押山からの交通
東方向 1)根羽川を遡るルート
2)押山~峯山~大野瀬~根羽ルート 街道跡が残る
西方向 江戸時代には矢作川を下り年貢米を平戸橋あたりまで運んだ記録があり、
古くから道が存在したか。
南方向 名倉川の東岸(名残はある)と西岸に道が存在したか。
北方向 上村川に沿い、小田子~木の実峠~岩村へと道があったか。
関連施設
川手古城(山田氏が川手に移住した時の最初の居城)
大慈院(永禄8年(1565年)開山)、
旧押山熊野神社(永禄8年(1565年)創建)
(合祀により遷座されたが、石垣が残る)
押山大日如来(天文22年(1553年)祀る)
☆ 旧熊野神社跡(石垣が残る)
山田氏の動き(今までの情報を整理)
1335年ごろ 川手古城の位置に、城又は居館を構えて移住した。
押山まで支配域を拡大するのに伴い、川手古城では、統治に問題があり、川手城に移る。
押山(押山城あたり)と峯山に既存の施設を利用して砦を構える。
不穏な情勢の時代になり新たな城を構築。それが押山城等。(砦を改築し城塞化)
川手城(押山城)の経済
山田景隆は、三河方面の今川方諸士に対し、軍事指揮権を持つ地位にあったと伝えられ
ている。とすると、財政的にも豊かであったはずである。押山町、川手町全体は100
軒程度の集落であり、1000人にみたない程度の人口と思われる。
山林が多く農産物の生産に適した土地が少なく、農業収入は少ないと思われる。三河地
方に指揮権を持つ侍大将の本国収入としては少ない。
これに対し、交通の便は非常に良い。東(信州)、西(西三河)、南(東三河)、北
(美濃)と、各地に通じている。足助(標高200メートル前後)~伊勢神峠(標高850
メートル前後)~稲武(標高約500メートル)~根羽(信州 標高約600メートル)ル
ートの道があったかも知れないが、山越えのルートなどの問題があり、本格的に使わ
れたのは戦火がなくなった江戸期に入ってからだと推察する。
このため、川で運ばれた荷物が、松平あたり(高橋、平戸橋付近)で陸揚げされ、山田
氏の支配地区を通過することで得る関銭などを収益源としていたと推察する。
また、武田信玄からの5000貫での調略、徳川家康による地頭への任命と、商人を連
想させる報償をも考えると、やはり、川手を拠点として物流による経済で生計をたてて
いたと思われる。
(井伊家の中では、優秀な行政力を発揮(井伊を名乗るほど)しており商人としての知
見が生かされていたのではないか)
参考資料
書籍 等
① 語り継ぎたい郷土のあゆみ 押山の歴史 安藤 泰 著 平成28年3月31日
② 村々に伝わる ふるさとの歴史 安藤 泰 著 平成21年4月12日
③ 川手山田家略系図 安藤 泰 編
④ 川手城をめぐる謎 安藤 泰 編
⑤ 川手一族の歴史 川手一豊 著 平成20年秋
⑥ 川手氏の研究 川手一豊 著 平成30年
⑦ 長篠戦史 第二分冊 山家三方衆 平成30年3月31日 改訂版
⑧ 戦国大名家臣団辞典 東国編
⑨ 中津藩史 黒屋直房 著
⑩ 飯田市美術博物館 研究紀要 第23号 2013年
⑪ 武田三代 平山優 著
ホームページ 等
① 井伊美術館 https://www.ii-museum.jp/
② 長篠落武者日記 https://blog.goo.ne.jp/ochimusya_1974/
③ BUSHOO!JAPAN https://bushoojapan.com/bushoo/ii/2017/07/09/101675
④ 飯田市美術博物館研究紀要23:21~52(2013.3)武田領侵攻―下伊那の戦い―