峰山摩利支天社の石碑・石神仏
峰山祖先之碑
峰山在住の人々が、祖先太田左エ門大夫佐彦の没後335年を記念して、大正8年(1919年)2月20日に石碑を建て祀ったものです。石碑の文字は大石文一氏(雅号は月湖)によるものです。
この石碑は、台座を除いた本体部分で、高さ180㎝、幅73㎝、厚み30㎝もある大きなものです。社の上の山から切り出したとのことですが、いったいどんな作業だったのでしょうか?
いずれにせよ、10戸そこそこの集落の人々によって建立されたことを考えると、自分たちの歴史に対するよほど強烈な想いがあったと察せられます。
風神 地蔵 庚申塔
峰山祖先之碑の後ろに3体の石神仏が並んでいます。左は風神(昭和10年)で嵐などの風にまつわる災害から作物を守ることを祈願したと思われます。
ちなみに、風神が石神として祀られることは比較的少なく珍しいものです。中央は地蔵菩薩でポピュラーなものですが、右の庚申塔(こうしんとう・明和4年)については地元でもあまり知られていないようなので詳しく紹介します。
庚申塔とは
庚申(こうしん)信仰の供養塔で、中央の怖い像は青面金剛(しょうめんこんごう)です。
この塔を見ると、上部に日月と瑞雲・中央に青面金剛・裾の左右に鶏・足の下に三猿がいます。この三猿は見ザル言わザル聞かザルです。
また六臂(6本の手)のうち2本は合掌・2本が弓と矢を持っています。残り2本の持ち物はよく判別できませんが、宝輪と矛のようにも見えます。
なお、これらの由来や意味についてはいろいろな説がありますが、その一部を紹介します。
青面金剛→ もともとこのインドの破壊神でしたが、めぐりめぐって仏教に取り入れられ、さらに庚申信仰の本尊となりました。
青面金剛像が日本で盛んにつくられるようになったのは江戸時承応(1652年~)以降ですが、寛文年間(1661年~)になると地方へも広がっていきました。
当然これは庚申信仰の広がりと並行しています。
日月 → 『日月清明、風雨順時、五穀豊穣、天下大平』という言葉に象徴されるように、天候に恵まれて豊作になることを祈ったもの。
鶏 → 邪気を払う鳥
猿 → 庚申=かのえ・さるに発した信仰であることに由来。『見ざる聞かざる言わ
ざる』は『悪事は見るな・聞くな・言うな』など諸説があります。
庚申信仰とは
では、この塔がつくられる動機になった庚申信仰とはどのようなものだったのでしょうか? 実は3~4世紀の中国で道教がもととなって成立した信仰で、日本には奈良時代に伝えられました。その内容は、
人間の体内には三尸(さんし)という三匹の虫が棲んでいる。この虫は庚申(かのえさる)の日の夜、人が眠るとその体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の悪事をくまなく報告する。報告を受けた天帝は悪事の程度によりその人の寿命を削る。
というものですが、こうなると人間はいろいろ知恵を働かすもので、
人が眠ると三尸が抜け出すのであれば眠らないでおけばよい。目覚めていれば庚申の夜であっても三尸は体外へ抜け出せず、天帝にも告げ口ができないはずだ。
と考え、庚申の日には事前に決めた当番の家に集まって、青面金剛の掛け軸などを掛けて般若心経や真言を唱え、その後は飲食や歓談で夜を明かす・・・ということをするようになりました。
当初は一部上流階級のみに限られていましたが、その後、鎌倉・室町時代には武士や名主層に広まり、さらに江戸時代になると急速に庶民の間に広まっていきました。また、同時に仏教や神道その他の民間信仰の影響を受け複合的な内容にもなっていきました。
現在でも各地に根強く生き残っていますが、信仰というよりは、それにかこつけて集まり飲食歓談して楽しむという面が主になっているようです。もっとも程度の差はあれ昔もそうだったらしいですが。
さて、峰山地区ではどうだったのでしょうか?
大正生まれの峰山出身者に聞いてみましたがこのような集まりの記憶がないとのことでした。明治時代についても情報はありません。
ちなみに、押山の他地区については、戦前に押山上組でおこなわれていたようですが、はっきりしたことはわかりませんでした。
結局わかったことは、この庚申塔は明和4年(1767年)につくられたという事実だけですが、1700年代後半といえば明治維新の約100年前であり、田沼意次が失脚し松平定信が登場、杉田玄白や本居宣長などが活躍していた時代です。
そんな時代に、山深いここの人たちは、庚申の集まりのなかでどんなことを話し合っていたのでしょうか?
参考文献
石神信仰 大護八郎 昭和52年
石仏巡り入門 日本石仏協会 平成 9年
日本石仏図典 〃 昭和61年
石の宗教 五来 重 平成19年
石仏学入門 石田哲也 平成 9年
稲武町史 民俗資料編 平成11年
稲武の石神仏 昭和51年