峰山摩利支天社の歴史
ひっそりと佇む現在の摩利支天社
峰山摩利支天の由来
社内につぎのような由来記が掲げられています。地元の人によって書かれたものです。
摩利支尊天由来記
弘治二年(一説には永禄三年)武節城は武田軍の攻撃を受け破れ城主共々川手城に立て籠もりしも力尽きて開城しました。二子を残して城主は手勢姫を連れて峯山に来たりしも追っての速くして姫は家名地に於て討たれました。
先祖太田左衛門太郎佐彦は日頃信仰厚き摩利支天様を鏡岩の下に隠して愛馬鹿毛を連れて吉吾畑から子持ち桂への道をさけて山の嶺を横切り大洞へ身を潜め敵の過ぐるを待ちましたが急な山で石がらも多く馬の足跡をつけられ戦となりそれでも何とか切り抜けて善光寺平(一説には辰野)で機を見て一矢をと思ひつつも時を得ず十余年を経て世も静まりそれに夜如夢枕に立つ摩利支天様恋しさに帰り武士を止め百姓となりました。
摩利支天様は下貝戸の裏山に祀ってありましたが天保十三年土地及び近郷の人たちの寄進により現在地に移し中門くぐりの拝殿おさや付きにて造営致しました。
祭りは旧六月二十七、八日屋台付きにて打囃し夜晝飲んで歌って踊って近郷近在の集ひで
明治四十五年神社合併時迄盛んに行われたとのことです。
戦に行く人は小剣を借りて無事帰って来ると何十倍何百倍にもして御礼詣りされておられました。現在は入学必勝祈願合格卒業御礼詣りする人も遠くは美濃岡崎長野等多々あります。
伊勢湾台風に倒壊しましたがおさやは昭和五十八年八月十六日新築されました。祭りは春の彼岸中日午後行っています。
付記 一時期は八幡神社と申したことも記録にあります。
(注) ここでは太田左衛門太郎佐彦と記されていますが、後で紹介する石碑では太田左エ門太夫佐彦と記されています。
戦国時代の事実関係の細部など確かめようがありませんが、この地の太田氏が長い歴史を持っていることは事実であり、このような内容が連綿と語り継がれたことは並々ならぬ重みを感じさせます。
鏡岩
由来記のなかで、摩利支天を隠したという“鏡岩”は現在も残っています。
(手前の平らな岩)。
小剣
由来記にある“小剣”です。
お祭り
昔のお祭りの写真が残っています。50年以上前のもので、前列の子供たちも今では還暦を過ぎました。